死ぬことはわかっていても誰も死と向き合わない

死ぬことはわかっていても誰も死と向き合わない
Pocket

「私もいつか死ぬだろう」そんなことは、とうの昔からわかりきっていることなのに・・・。

この『モリー先生との火曜日(NHK出版、ミッチ・アルボム著)』を読み終えて、改めてその感覚を覚えました。




人の死は想像できるのに自分の死は想像しようとさえしない…

私たちは、その「いつかという日」を、他人事のように、何十年も先に起こるかもしれない程度のいい加減さで考えていたりする。曖昧な未来の予定として、架空の物語のエンディングかのようにぼんやりと認識するだけで、いつだって頭に片隅に追いやりながら忘れているフリをして生きてはいないだろうか。きっとこの先、体に不調があった時、身近な人に不幸が訪れてしまった時にしか、実感として思い出すことさえしない逃避行を続けているかのように・・・。

現実的ではないけれど、不慮の事故で命を落としてしまった人に、こう聞いてみたらどんな答えが返ってくるのだろう?

『あなたは、突然訪れた人生最後の日を、きちんと準備して迎えることができましたか?』
『あなたは、生涯やり残したことはありませんか?』と・・・。

日々、私たちはせわしなく生きている気になっている。今日という一日が、まばたきをするその一瞬のうちに終わっていくような気さえして…。自宅のベッドで横になり、目を閉じたほんの数時間後には、また新しい今日が必然的に始まっていくようなスピードで、今日という日があたりまえにやってきたかのように生きてしまってはいないだろうか。毎日、くりかえされるルーティンワークで、毎日同じ時刻の電車に飛び乗っては、揺られ運ばれ降り立つ雑踏のホーム。考えてる気になってはオートマチックに毎日のタスクを処理する事に達成感を感じ、やりたい事ではなくやらなければならない事をこなす任務を正義感で全うする。拘束時間の解放により労いの酒を仰ぐ事に幸せを重ねたりしてはいないだろうか。

はじまりから終わりへ、終わりからはじまりへ。

時間は常に、ふさがりながら広がりを続け、伸縮をくりかえして未来へと導いていく。

もう何年もぼくは仕事を相棒にして、ほかのものはすべて脇へどけていた。

「仕事が生きがい」そう断言する人も居るし、「人生暇つぶし」なんてことを言う人もいる。すべての人にとって人生が輝かしいものであるわけでもなく、無意味なわけでもない。けれど「あなたの人生の意味は何ですか?」と聞かれれば、確かな答えを述べることはできない気がする。

自分の人生を、的確に表現するような言葉が見つからない・・・。

自分に残された時間の尺が、指で数えられてしまうほどに明確になった時になって、自分が本当にしなければならないことや、やっておきたいことが見えてくる。そしてその時になってからでは、充分に遅すぎるという現実に向き合うことだろう。

それでも「いつかは…」とうそぶいて、曖昧すぎる「ちっぽけな野望」をいつまでも抱え込んで生きている。「そのうちきっと…」なんて根拠のない理念に辻褄を合わせるように、自分に対して嘘を積み重ねていく。

やれない理由を口にしている余裕はない

「人生に遅すぎるということはない」なんて流暢なことを言っている暇があれば、自分のやるべきことを進めていくべきである。

そして、ぼくにはやらなければならないことがある

自分がやるべきこと、やらなければいけないと思うこと。誰のためとか何のためとか、理屈を通り越して「やらなければならない」と思うような責務を持っていることは、時に人を突き動かす原動力にとなる。

情報通信ツールが発展した事もあり、メールやLINEのやりとりで、友人や家族と変わりなくつながっていると安心しきっている人々。顔を合わすことが少なくなってしまった友人や家族の今を、「あなたはどれだけ知っていますか?」何を考え、何を求め、何を喜び、何に哀しんでいるのか・・・?。どこで誰と何をして生きているの?おそらく知らないことが多すぎることに愕然とするのではないだろうか。

温かさを求めながら得られないまま・・・。

たまには、手紙の一通でも送ってみたり、電話の一本でも連絡してみるべきだと思う。困っていることや悩んでいること、良いことや嬉しいことを聞くだけでも、ふたりの間に刻まれる時計の針は、わずかに重みのあるものになってゆくはず。いつまでも、あなたの電話が鳴るのを待っていないで、友の電話を鳴らして「やあ、元気?」と一声でもかけてみるべきだ。

いつまでも他者に変化を求めてばかりいないで、自分から変化をしなければならない。このままで良いはずはない。そう気付いているのであれば、このまま今の生活をくりかえす理由なんて、どこにもないだろう。

自分の弱さや偽りは自分が一番見えている

「誰でもいずれ死ぬことはわかっているのに、誰もそれを信じない。信じているなら、ちがうやり方をするはずだ。」

暇さえあれば、携帯の中の履歴やメッセージを読み返す人・・・。過去をふりかえることで、今を無駄にするなんてナンセンスすぎる。

年をとれば、それだけ学ぶことも多い。ずっと二十二歳のままなら、いつまでも二十二のときと同じように無知だっていうことになる。老化はただの衰弱じゃない。成長なんだ。

なぜみんな「もう一度若くなれたら」なんて言うんでしょう?人生に満足してないんだよ。満たされていない。人生の意義を見出していない。だってね、人生に意義を認めていたら、逆もどりしたいとは思わないだろう。先へ進みたいと思う。もっと見たい。もっとやりたいと思う。

それでも僕らの心は、いつまでも満たされることはないということに気が付いている。終わりの見えない心の充足を認めながらも、限られた時間において努力はしていくべきなんだろう。

欲しがっているといつまでも満たされることはない

ほんとうに満足を与えてくれるものは、何だと思う?
「自分が人にあげられるものを提供すること」

手に入れることではなく、手渡すことを考える。集めることではなく、配ることを考える。筆者は、次の言葉ですべてを表現しています。

「互いに愛せよ。さもなくば滅びあるのみ」

モリー先生を襲った病。着実に死への階段を上っていく日々を過ごし、限られたわずかな時間を、誰かのために使いたいと願う。死を恐れることなく、楽観することもなく、平然と向き合うことで見えてくる景色を、誰かの為に捧げていく火曜日のひとときとして綴った内容が本書には記録されています。

モリー先生のお話を聞いていると、人生を誰もがもっとシンプルに見ることができることでしょう。有限である時間に悲観するのではなく、希望を持って消化していく。静かなカウントダウンをバックサウンドに、昼下がりの温もりに包まれていく。人生で大切なこととは何か。シンプルな疑問でありながら丁寧に答えを導いていく時間となることでしょう。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください