母親

かあちゃん
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お母さん、おかん、おかあちゃん、ママ、お袋・・・。皆さんは自分の母親の事を、どんな呼び方をしていますか?そんなこんなで今回はこちら、『かあちゃん(講談社文庫、重松清著)』を読みました。


この世界には、多くの母親が存在します。人が生まれるには、必ずや母親が必要というのは当然ではありますが、その中でも一人として同じ母親というものは存在しませんよね。それぞれに年齢や性格も違えば、考え方も暮らしている環境も違います。「母親はこうあるべき!」なんて理論は、ただの押し付けでしかないし。。。誰かの偏った理想論でしかないんだと思うけれど、皆さんはどう思いますか?

多くの母親がそれぞれのやり方で子を育て、手の届く「関係性」や「つながり」を成して、次は自分が母親になったりならなかったりしながら命はつながっていくのでしょう。

心を言葉で表現できるのか?

ノートを言葉で埋めれば埋めるほどに、そこにほんものの心なんてないよ、という気がする。自分の心をきちんと言葉で表現できるぐらいなら、誰も苦労しないよ、とも思う。こういうのって、ないよりはあったほうがいいのかもしれないけど・・・あっても、100%解決するわけじゃない。~リセットより~

交換ノートというものを、子供のころに何度か経験した記憶があります。

普段言えないことをノートに書き綴り、会話とは違った形式で相手の心を知るための手段であったり、仲良しの友達であるという関係性を証明してくれるような、半ば強制的なものであったり、その意味は様々だったような気がします。

それでもきっと、交換ノートに書いたことが本音だとは限らないし、書いた後にはすでにその考えはどうでも良くなっていたりもして、渡した後に少し時間が経ってそれを読んだ相手は、リアルタイムにその言葉たちを受け取って、「書き手の今」と「読み手の今」の時間のズレに気がつかずに、親身に相談に乗ろうとしたりするようなお節介になってしまう時もあるような時もありました。

実際に書き手は、アドバイスなんて求めていなかったりするし、すでに解決済であったり、そのタイムラグが余計に面倒を生んでしまうこともあるのにな・・・と、子供ながらに思ったりもして・・・。

友達と仲良くしていたい。という欲求は自然な感情のひとつですが、解決を相手に求めるような思いや考えだけで僕らは成り立っているわけじゃない。ただ思うこと、ただ聞いて欲しいことを交換ノートには書くべきじゃないか…そう思うのです。

起こった事を叱るのは時間の無駄。

必要なのは、嘘をついた理由を考えることだよ。
嘘をついたことそのものを叱っていたら、話はちっとも先に進まない。~ジャンプより~

どんなことにも言えるのかもしれませんが、この原因究明作業・・・。
もちろん同じ過ちを繰り返さないために、その事由を追及することは必要なことだと思う。けれど、「誰の責任なのか?」という目的のための掘り下げは時間の無駄としか言いようがない。

理由をうまく言えない理由ってのもある。

わかる。理由はわからないままでも、理由をうまく言えない理由が、僕にも伝わる。スジの通った理由をすらすらと説明されたら、そっちのほうが嘘っぽい。~ドロップより~

物事には、理屈では割り切れないことがいくつもあります。でも、それらすべてを正義で押し通そうとする社会の常識には確実に無理があるはずなのに、人はそれらすべてを良いか悪いかという枠組みで線引きをしようとする節があるの事に無理を感じる・・・。

はじまりはみんな母親から・・・

思い出すことすらできない人生のいちばん最初の記憶に、母親がいる。~アゲイン・アゲインより~

人は死ぬ時に走馬燈を見るなんて映画や小説の中でも良く言われたりします。老いていくなかで、少しずつ記憶を失っていくのは逃がれられないのかもしれません。その最後までこびりつくものって、きっと母親の胎内の記憶という曖昧なものなのかもしれません。記憶のない時期の記憶に、命の終わりには、辿り着くというのも何だか悪いことじゃないような気がする。

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