何かを掲げなければ何もはじまらない

何かを掲げなければ何もはじまらない
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彼の最後の言葉は、
「ここにいるのは英雄ではない。
ただのひとりの男だ。
撃て!臆病者め!」

私は、彼のように命をかけてまでやり抜きたいと思う何かがあるだろうか?

少なからず彼を知り、「何かを掲げなければ何もはじまらない」ということを学ぶことが出来た。



元気が出るゲバラ語録(リイド社、知的好奇心研究会著)

フィデル・カストロとともにキューバの共産主義革命に尽力したチェ・ゲバラ。
”赤いキリスト”の異名をとり、目的のためであれば、武器を取ることもゲリラを組織することもいとわなかった彼だが、後に星の数ほど発行された文献によれば、英雄や殺傷者といった屈強なイメージとはまったく違う人間であったという。

彼は、自書や手記などで、常に弱音や母親に対する甘えを吐露していた。家族に対する愛情は人一倍大きく、また、自分と行動をともにする同志に対しても、いつも配慮と気遣いを忘れなかった人物でもある。
甘ったるいと思われるかもしれないが、言わせてほしい。
ほんとうの革命家は、大いなる愛情に導かれている。
愛のない本物の革命家なんて、考えられない。
私が彼を初めて知ったのは結構最近のこと。
知り合いのススメで観た映画「モーターサイクルダイアリーズ」だった。

“チェ・ゲバラ”この名前を耳にしたのは今からずいぶん前のいつかだったけれど、それが誰で、何をした人物なのかは知らずにいた。

“チェ・ゲバラ”こと本名“エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ”は1928年6月14日、アルゼンチン第二の都市ロサリオで、父(エドゥアルド)母(セリア)との間に経済的にもそれなりに恵まれた中に生まれる。しかし、未熟児として生まれた彼は重度の喘息を抱えた。成長過程においてもたびたび痙攣性の咳をともなう発作に襲われては酸素注入器を使用した。幼い頃から、同世代の誰よりも負けず嫌いで理屈に合わない権威や圧力に歯向っていた。また、彼は知的好奇心旺盛な読書家でもあった。その後コルドバの高等学校に入学、後にブエノスアイレス大学医学部に入学する。

1951年12月29日、ゲバラ23歳の時、同級生の兄“アルベルト・グラナード”29歳とともに、二人は「ポデローザ(強力)?号」と名付けた、おんぼろバイクで南米大陸を回り、北米を目指す旅に出る。
ブエノスアイレスからパタゴニアへ下り、チリに入って太平洋岸を北上し、北米大陸まで望む旅。
地図でしか知らなかった南米大陸を自分達の足で回る、金も、泊まるあてもない貧乏旅行。今日で言うバックパッカーである。バイクは早々に壊れ、船、ヒッチハイク、徒歩とをくりかえし各地で二人は貴重な体験をする。インカ文明の遺跡は自分たちのルーツの再発見であり、ペルーではイメージしていた誇り高き先住民とあまりにかけ離れたインディオの悲惨な暮らしを目の当たりにし、ショックを受ける。サンパブロのハンセン病療養所では偏見を捨てて患者達に献身的に奉仕し、そのお礼にと、アマゾンを下る筏まで組んでもらった。旅立ちの前夜療養所のスタッフが祝ってくれた誕生祝いの席で、ゲバラはこんなスピーチをしている。

「僕らのような者があなたがたの主張の代弁者になることはできませんが、今回の旅でいっそう強く確信しました。いまのように見せかけの国境によって国がわかれているのはまったく理不尽なことだと強く感じています。私たち南米諸国は一つの混血民族を形成しているのです。だから、偏狭な地方主義など打ち捨てて、ペルーと、統一されたラテンアメリカのために乾杯しましょう。」

すなわち「ラテンアメリカの国々に架け橋をつくること」それは、ゲバラの壮大な夢のひとつに違いなかったのです。

彼が自分を“チェ・ゲバラ”と呼ばれるようになったのは、アルゼンチンのコルドバ地方の方言で「ねぇ」とか「きみ」のような気安く話しかけるときに呼びかける“チェ”というのをニックネームを気に入ったからだった。

その後。フィデル・カストロと運命的な出会いをし、彼の強固な信念、意志の強靭さ、その雄弁、そのスケールの大きさにおいてこれほどの人物に会ったことはなく、「その理想のためなら、他国での死をもいとわない」と決心しともにキューバ革命に参加することとなっていく。

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