抽象的思考を持てるかどうか

抽象的思考を持てるかどうか
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「論理的思考」「ロジカルシンキング」そんな思考法が最近の流行りではありますが、著者は、問題に直面した際、本当に必要なのは「抽象的思考」であると唱えています。

具体的な解決策を述べよ。それに回答できなければ議論にさえならない・・・。とまでは言わないけれど、論理的に具体策を出さなければ話にならないといったことは、仕事をする上で出てくる問題かもしれません。『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか(新潮新書、森博嗣著)


しかしながら、この具体的にしか物事を捉えられないとすると、いくら有益な情報がインプットされていても、より良いものは生まれてこない傾向にあるのも現実かもしれません。その理由としては「~のようなもの」などの抽象的な発想や思考の中からの方が、広いインプット情報から数多くの「~のようなもの」という曖昧な枠での選択肢を思い浮かべることができるものでもあるからです。

具体的な指示がないと動けない人

「具体的に作業を指示してください」という従業員がいた場合、もちろん曖昧な指示では何をどうすれば良いのかわからなくて、見当違いの作業をしてしまうかもしれません。しかしながら、具体的な指示でしか動けない従業員は、そこに自らの考えを思い浮かべるでもなく、言われたことを言われた通りに実行するだけになってしまいがちです。それでは、ロボットでも良いのでは?という話になりかねません。

教育が抽象的思考を阻害している

教育という行為は、少なからず具体的情報を押し付ける行為であり、ぼんやりと存在していた個人のイメージに対し、みんなで共有するために意味を限定(すなわち定義)する作業の集積でもある。

自由な発想をしましょう!と投げかけても最近の子供たちは現実的な表現をしてしまう傾向にあるのは、きっとそういった教育や情報の多さに飲み込まれてしまい「○○は、△△である」という世間一般の常識を前提として、正解であろうことをスマホひとつで知ることができる現実が原因にもなっているのでしょう。

テストは知識に多さを判断しているだけ

大人になってから、仕事の中で様々な問題解決をしていかなければなりませんが、知識があればすべてが解決するわけではありません。知識が多い方が判断材料が多いということでもあり、正解かもしれない答えを出すには有利ではあるはずです。しかし知識を持っているだけでは「知っている」だけであり、持っている知識を利用して考えるということまで出来るかどうかは不明です。

テストで点数が高いほど「頭が良い」とジャッジされますが、点数が高い人ほど、問題を解決できるかどうかは別の話になってきます。結局のところ、その持っている知識を使って応用ができるかどうか?それが問われるのです。

今の子供たちにとって大事なことは「覚えること」と「忘れないこと」そして「正確にそれを思い出せること」であって、「思いつけること」ではない。

芸術を語れば語るほど芸術家にはなれない

芸術に触れたとき、感想文を書くことが上手くなれば、きっとその分、芸術家になれなくなるだろう。解釈という単純化が、芸術を単なる技術にしてしまうからだ。

芸術とは感性であり抽象的なもの。その抽象化された芸術を見て、論理的に説明が出来てしまうということは、その抽象的なメッセージや表現などは受け取れなくなってしまった証拠でもある。

もうちょっと考えよう

いずれにしても、大事なことは「もうちょっと考えよう」という一言に尽きる。何に対しても、もうちょっと考えて欲しいのである。なにしろ、全然考えてない人が多すぎるからだ。みんな周りを見回して、自分がどうすれば良いのかを「選んでいる」だけで、考えているとは思えない。

ネットで検索して、ベストアンサーに沿ってそれを解決する。ごく自然と行われる問題解決である。しかし、そのベストアンサーのスタンプが押された時点で人は考えなくなる。それ以上の答えはないと思い込み疑問さえ持たない。その判断の仕方はその場しのぎでしかなく、人間の成長を止めてしまうかもしれない。

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